「書く」ということ。
手帳は、心の豊かさを生み出す道具である

このデジタルの時代、紙に手書きをすることの意味はどういうことなのでしょうか。例えば、ロルバーンのようなアナログなノートは、内省のためのツールだと考えています。 SNS がこれほど浸透している現代、デジタルツールを通して、我々は外部にものすごく浸されています。常にスマホを持ち歩いて、時間があればニュースを見てしまうし、ポロンと通知がくることで、ラインやメッセージなど様々な着信につい気が引かれていきます。

インスタ、Facebook は自分のためというよりも、見てくれる人のためにやっている側面も大きい。デジタルの発達により、自分の目が常に外側、他人に向いている生活にシフトしている現代です。昔はもっと違っていたのではないでしょうか。自分の意識がもっと内側を向いていて、内省する時間がたくさんありました。一人きりになる時間がいやが応でも沢山あった。自分のことを深く考えたり、見極める時間がありました。今はそれがどんどん減っている気がします。物事の本質や大切なことを自分で掴み取る機会が失われつつあるように感じます。

アイデアの逃げ足はとても早い

そこで、内省するために紙のノートは役立つと考えています。もちろん人に見せるための資料をまとめたりするには、編集しやすいデジタルツールの方が圧倒的に便利です。しかし、他人モードではなく自分モードに入って自分を見つめるときには、紙の方が有効ではないでしょうか。紙に書くという行為は、内省し、書きながら答えを出すというメリットがあります。

デジタルでも同じようなことができると思うかもしれませんが、しまいこんであるフォルダにだどりつくまで、あるいはアプリを開くまでのタイムラグが生じます。紙のノートはパッとひらけば、頭に浮かんだことをすぐに書き留めることができます。アイデアの逃げ足はとても早い。その速度感の訴求性はすごく大事だと考えます。内省のためのツールとしては、まだまだ紙がデジタルに勝っているのではないでしょうか。

誰にも邪魔されない内省の時間

もし将来、自分の頭の中のイメージがパッとデバイスに転写されるような時代になれば、いよいよ紙は必要なくなるかもしれませんが、そんな世界はまだ想像しづらいですよね。自分が本当にやりたいことはなんだろう。将来どうしていきたいのか、そんな大切なことを考える際にも、紙に書くことはすごく有効です。紙は誰にも邪魔されません。自分の書いたメモは人に見せるものではない。見せる前提だと他人モードになってしまいます。インスタやFacebookはある意味人に見せるための日記でもありますが、紙に書いた日記は、決して人に見せるためのものではない、そういう感覚です。

見せないものだから、極端に言えば愚痴や人の悪口だって書いてもいい。ポジティブなことはもちろんですが、そうやって自分のためだけに、紙に書いたものの蓄積から浮かび上がってくるもの、産まれ出てくるものがあると思っています。深い思考のために誰にも邪魔されない内省の時間を確保して、自分の手を動かすことによって良いアイデアが生まれてくる。デルフォニックスはそんな時間を大切にしてもらいたいと考えています。