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2024/4/4

『さみしい夜にはペンを持て』から学ぶ、自分と対話するための日記

新しい手帳を手にするたびに「今年こそは書き続けよう」と意気込んで始める日記。初めの数日は「よし!」とその日の出来事や考え事を綴るも、特に何も起こらない日があったり、忙しい日があったりする中で少しずつ日記から遠ざかり、気付いたら1か月。そんな経験をしたことがある人も多いのではないでしょうか。

こちらの読み物を書いている制作担当も、幾度と「日記が続かない」経験をしてきた一人です。今年も新しい手帳を前にして、そもそもなぜ日記を書くのか?どうしたら続けられるのか?と考えていたところ、一冊の本『さみしい夜にはペンを持て』と出合いました。
中学生に向けた物語でありながら、大人が読んでもページをめくるたびにはっとさせられる、気付きに溢れた読書体験。読み終わった頃には、日記そのものへの見方がガラッと変わっていました。

日記を書いている人、これから書こうと思っている人だけでなく、「自分についてもっと知りたい」「考えを自分の言葉で伝えられるようになりたい」という人の背中も押してくれるこちらの本。
今回の読み物では、文中で登場する「書くこと」にまつわる言葉を一部紹介しながら、なんのために日記を書くのかを考えてみたいと思います。

著:古賀史健 , 絵:ならの(ポプラ社)


13歳のために作られた、「自分の頭で考える」ための本

物語の内容に入る前に、まずは書籍『さみしい夜にはペンを持て』がどのように生まれたのかというところから。2023年12月に青山ブックセンター本店で開催された刊行記念イベント「『日記の目と耳を持って生きること』古賀史健×古賀及子トークセッション」の内容を少し紹介したい。

青山ブックセンター本店『さみしい夜にはペンを持て』刊行記念
「日記の目と耳をもって生きること」古賀史健×古賀及子トークセッション

2023年12月に青山ブックセンター本店にて実施されたトークセッション。
ライターである著者、古賀史健さんと、同じくライターとして活躍しつつ、2023年2月に日記集『ちょっと踊ったりすぐにかけだす』を刊行された古賀及子さんが、日記を書くことの意味や日記のおもしろさについて話す。

『嫌われる勇気』をはじめ、ビジネス書や自己啓発書のライターである古賀史健さんは、プライベートでも9年前から日記を書き続けているそう。「大人に向けた文章のテクニック論ではなく、自分にしか書けない切り口で“書くこと”について本を作りたかった」という今作は、初めての、中学生に向けた物語。現在の自身のライフワークである日記を軸として、さまざまなことに「分からない」「知りたい」と感じていた、子供の頃の自分に向けて書いたという。

対談相手である、同じくライターであり日記集も出版している古賀及子さんは、初めて『さみしい夜にはペンを持て』を読んだ時に「子供の頃の自分に間に合った。自分の時間が癒された」と感じたそう。さらに、「著者である古賀史健さんが読み手と同じ目線で、教えているというよりも書きながら教わる側に回っているように感じた」と話す。

一般的な「書き方」の本は、基本的に著者の持つノウハウやエッセンスを教えるように書かれるものが多い。なぜ書きながら教わるような読み口になったのか、それは「自分の無意識でやっていたことを、書きながら初めて分かっていった」からだという。
「自分が分かっていることだけを書くのは面白くない。階段を登った先から下を見下ろすのではなく、一段一段飛ばすことなく登るような感覚で、”こんなことを考えていたんだ”というのを言葉にしている」と話す。

この本を書く過程で古賀史健さんが大切にした、言葉にして初めて本当の意味で「分かる」ということ。これは、日記を書くことの本質的な意味でもあり、この本の中身でも一貫して伝えているメッセージだ。
決して正解を押し付けられているのではなく、登場人物と同じように自然と浮かんでくる疑問を、自分の頭で考えて自分のことのように落とし込めた感覚。読み進めながら実際に日記を書いていたわけではなかったが、自分も「言葉にする」体験をしたように感じた理由が分かった気がする。

それでは、そんな物語の中身を見てみよう。


書くことは、自分と対話すること

物語の主役は、いじめられっ子の中学生「タコジロー」。思ったことや考えをはっきり言えない自分のことが大嫌いだ。そんなタコジローが、ある日学校をサボって行った公園で「ヤドカリのおじさん」と出会う。

学校に行けず「いっそ消えてしまいたい」と思っていたタコジローは、初対面のおじさんに悩みを話したことで気持ちがスッキリした。そんな様子を見ておじさんはこう話す。

「だれかが話を聞いてくれたらうれしい。同意してくれたり、やさしい声をかけてくれたりしたら、もっとうれしい。でも、それだけかな?タコジローくんは話せたこと自体、うれしかったんじゃないかな?つまり、『聞いてもらうこと』より先に、『ことばにすること』のよろこびって、あったんじゃないかな?」

誰しもが多かれ少なかれ抱えている、すぐに言葉にできないぐるぐるとした感情。「嬉しい」「悲しい」だけではない気持ちは、自分でも気付きにくい。いつの間にか大きくなって「なんとなくつらい」「なにかが不安」など、曖昧なもやもやとした感情を抱えたまま我慢したことがある人も多いのではないだろうか。

タコジローはこの時初めて、辛抱強く聞いてくれたおじさんのおかげで「言葉にするよろこび」を感じることができた。しかし、そう聞いてくれる人がいつもそばにいるとは限らない。 そんな時にどうすればよいのかという問いに対し、おじさんは「だれにも話せないことは自分に相談すればいい」と話す。そしてその方法が、「書く」ということなのだと。

「書くってね、自分と対話することなんだよ」

自分の思いを言葉にすることは、自分の本心に気付くということ。まるで会話をするように自分に問いかけながら、言葉を探していく。
その過程をサポートするのが「書く」という行為だ。数学の問題を解く時、じっと腕組みをしたまま考えるのではなく、筆算をするように。書きながら一つずつ整理していけば、自分なりの答えが必ず見つかる。

「書いては消し、消しては書く。『こんな感じかな?』と書いていく自分と、『違う、もっと別の言いかたがあるはずだ』と消しゴムを入れる自分が、何度も話し合う。ーまさしく、自分との対話だ」

書くということは、SNSでつぶやくこととは違う。誰かに話すこととも違う。
ここは、誰とも共有せず納得がいくまで書き直すことができる、自分だけの場所だ。言葉にすることや間違えを恐れる必要はない。
周りに気を遣ったり、「こんなことを思ってはいけないのではないか」と考えたりしなくていい、ありのままの感情や心の奥底の望み。自分しか知らない自分と対話をして、言葉にしてみよう。

日記を書くという行為は、自分という謎を自分の手で少しずつ紐解いていくようなものなのだ。


あの時の自分を、スローモーションで見つめる

自分について知りたいという思いが芽生え日記を書き始めたタコジローだが、いざ書こうとすると何を書けばいいのか分からなくなってしまう。
「日記が続かない」経験をしたことがある人は、共感できるのではないだろうか。

書けないタコジローに、おじさんはさまざまなアドバイスをする。
その中の一つが、「スローモーションであの時の感情を観察する」ということだった。

「ほんとうの気持ちは、もっともっと細かいところまでスローモーションにすることができる。ぼくたちは意識していないだけで、あきれるくらいたくさんのことを感じているんだからね」

日記を前にして、その日の朝から夜までの出来事を順に思い出して書こうとしていないだろうか。
もちろん記録として出来事を残しておくのは悪いことではない。ただ、本当に書きたいことは友人との数分の会話だったり、歩いている時のふとした考え事だったりするのではないか。

一日をすべて残すのは不可能だ。特に自分の心が動いた瞬間に絞って、スローモーションで観察するように文字にしていけばいい。
あの時なぜそう思ったのか?なぜあの行動をとったのか?そこにはどんな会話や表情があったのか?と、あの瞬間の自分にインタビューをするようにしながら思い出していく。
それをそのまま言葉にしていくと、「自分はこうしたかったのか」と思いもよらない気付きがあったり、「次はこうしてみよう」と行動に繋がるヒントが隠れていたりする。

今日は特に書くことがないな、と思う日でも、私たちは一日の中でたくさんのことを感じ、考えている。「書こう」と思うことは、その一瞬一瞬の感情をゆっくり観察する一つのきっかけなのだ。


日記のなかの「もうひとりの自分」

おじさんからさまざまな「書く」視点を教わり、自分との対話がすこしできるようになったタコジローだが、数日経った頃、日記を書くのが辛くなってしまう。
悩みごとや、誰かの悪口、不満。切実であるからこそネガティブな感情で溢れて、自分の嫌いな自分が見えてきたのだ。

そんなタコジローにおじさんは、ネガティブな感情と距離を置く方法を教えた。
嫌な感情を過去形で書くことで冷静になって、悩みごとの中から「自分の行動で解決できること」を見つける。自分の呼び名を一人称の「ぼく」から三人称の「タコジロー」へ置き換えて、物語の主人公のように見てみる。

こうして客観的に振り返ってみると、嫌に思えていた感情も素直に「すごくがんばっているな」と思えたり、悩みごとも些細なものに見えてきたりするかもしれない。
そうやって書き続けた日記のなかには「もうひとりの自分」が生まれてくるのだ、とおじさんは話す。

「学校の自分とも、家のなかの自分ともちょっとだけ違う、タコジローくんしか知らない、もうひとりの自分だ。みんなの前ではおとなしかったとしても、日記のなかではたくさんしゃべる。自分の思いを、だれに気兼ねすることもなく、自由にことばにしている。しかもそれは、ニセモノの自分じゃない。ほんとうに存在する、なんの嘘もついていない、もうひとりの自分だ。少なくとも日記を開けば、『彼』がそこにいるんだ」

教室にいる自分のことを好きになれなくても、「日記のなかの自分」を好きになることはできる。タコジローは、たくさんの悩みで真っ暗だった視界が、明るくなったような気がした。

そうして日記を書き始めて10日目、おじさんはこう話した。

「日記を書くのは自分だ。そして日記を読むのも自分だ。『わかってもらおう』とする自分がいて、『わかろう』とする自分がいる。『伝えたい』自分がいて、それを『知りたい』自分がいる。そこが日記の、おもしろいところなんだ」

大切なのは、自分の日記にも「未来の自分」という読者がいるという前提で、丁寧に言葉を選んで書き続けるということ。毎日積み重ねていくと、後になって読み返したときに、少しずつ自分のことが分かるようになってきたり、読むのが楽しくなってきたりする。

そういった実感が、日記を書き続ける意味になっていくのだ。




1か月前に考えていたこと、感じたこと、覚えているだろうか。
この本を読みながら、ふと過去の自分の頭や心の中を思い出そうとしてみるも、昨日のことも霧がかかっているようではっきり思い出せない。
手掛かりといえば、写真フォルダやSNSでの投稿、友人とのトーク履歴など、スマートフォンの中に残っている情報だけだ。
誰にも話せなかったことや、自己完結したことは、どこにも残っていない。

誰もが、所属するさまざまなコミュニティで、意識的にも無意識的にも、さまざまな面を持っている。「ここでの自分は本当の自分ではない」と思うこともあるかもしれない。
一日にほんの少しでも、「ありのままの自分」の感情や考えが言葉になって残っていたらどうだろうか、と想像してみた。毎日あれこれと頭を巡らせているその一部が、形になって蓄積していくとしたらどうだろうかと。

自分なりの言葉にすることで、ありのままの自分を知っていく。そうして綴った日記は、読み返した時に「一年前のあの日も一生懸命に考えて過ごしていたんだ」と、小さくも確かな自信をくれるものになるような気がする。
そんな想像が、今日も自分にペンを握らせるのだ。

一番身近であり、一番大きなテーマとして向き合っていく「自分」のこと。
まずは一日、日記を書くことから、自分について知る時間を始めてみてはどうだろうか。


『さみしい夜にはペンを持て』の詳しい情報はこちら

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