みなさんの生活の中に、「書くこと」はありますか?
かつては当たり前だった、紙に書くという習慣。年を重ね、デジタルツールも発展し、特別な行為になってきている人もいるのではないでしょうか。
デルフォニックスでは、紙に書くという習慣が誰かの日常をより豊かにするものであり続けて欲しいと考えています。
こちらの読み物「書く人」で取り上げるのは、「書くこと」が日常の中に当たり前にある人。その一点のみを共通項として、不定期連載としてさまざまな人にお話を伺いながら、「書くこと」のある毎日について考えてみたいと思います。
今回お話を伺ったのは、歌人・伊藤紺さん。
軽やかな言葉で紡がれる彼女の短歌を初めて知った時、心の奥底にある、知っているけれどもうまく言葉にできない感情や記憶が、形を成して思い起こされるような感覚に包まれた。
日常の中で生まれた心の動きを見逃さずに自らの語彙で表現する彼女は、長年日記を書いていると話す。日々言葉や感情と向き合う伊藤さんにとっての「書くこと」とはどのような行為なのか、聞いてみた。
―これまで日記とはどのように付き合ってきたのでしょうか。
しっかり書き始めたのは、大学1、2年生くらいからでしょうか。毎日ではなく、休み休み続いている感じです。中高生の頃から、3行日記をやってみたり、ブログを書いていたり、書くことは身近にあったのだと思います。
初めの頃は「毎日書くもの」と思っていて、書き忘れたら振り返って前の日のものを書く、みたいなこともしていましたが、まあ続かないですよね。
今は、書きたいかもしれない気がする時だけ。例えばこれを書いておこうかなということがあった日だったり、ちょっとモヤモヤしている日だったり。後は、なんだか仕事は始められないけれど今ゲームとか本とか読んでいる場合でもないな、っていう時に仕事の一歩前の段階として書いたりしています。継続しようという感じはなくて、自然と続いていますね。
―インタビューのご依頼をさせていただいた際に、日記用にロルバーンを使ってくださっていると知って、嬉しかったです。
無地のロルバーンを長年愛用しています。半年に一冊くらいなので、これは4年分くらいでしょうか。表紙の色は、毎回気分で。そんなつもりはなかったのに、ピンクを使っていた時の日記は恋愛の内容が多かったり、暗めの色を選んでみたときは悩んでいる内容が多かったり。予言というか、自分のムードが無意識下で反映されているのかもしれません。半年に一度、心して選んでいます。
―これだけたくさんあると、過去の物を読み返したりもしますか。
昔は読み返したりもしていましたが、今はあまり見返さないです。その時間があったら、新しい本を読みたい。
ずっと、日記には嘘を書かない、と決めていて。楽しかったことや嬉しかったこともありますが、やっぱり何かに悩んでいる時の方が書いていることが多いので、読んでいると気持ちが持って行かれてしまいます。だから「読まない方がいい」という感じです。たまに読むとおもしろいですけど。
―短歌の種というか、ヒントになるようなものを日記にストックしているのかなと思っていたので、あまり読み返さないというのは意外でした。
短歌の種になりそうなものは、もっと明確に残しておきたいので、100文字以内くらいのより短い言葉で、iPhoneのメモに記録しています。短歌の制作過程も全てPCです。
でも、たまに日記を書いていて短歌にかなり近い言葉が生まれることも。書き始める時はまだまとまっていないことが多いので、書きながら気付いたら、という感じですが。
―書きながら整理をするためのツール、なのでしょうか。
まさにそうだと思います。一つは吐き出すため、もう一つは考えるためのもの。わたし、頭の中だけで考えられないんです。
だらだらと書くものなので、短歌とは違って言葉も選んでいないし、読めたもんじゃないです。
「あ、ここ、本当はこういう風に思ってないな」みたいな言葉をさらさらっと書いちゃったら「いや、違うな」と置いて書き直したりして、書きながら少しずつ本当のところに近づいていく、みたいな感じ。
その中で時々、「これは“名日記”だ」みたいなのが書けたりする日があって。本当に数回ですが、その最後の方の文章がほぼそのまま短歌になることも。確実に、つながってはいます。
―日記を書きながらたどり着いた歌は、どんなものがありますか。
「叶わないことがたくさんあったって別に不幸ではないと思った」
『気がする朝』(ナナロク社)
これは、長い日記の終わりに書いていたことが、ほぼそのまま短歌になりました。名日記でしたね。
日記に書いているのはほとんどが稚拙なものですが、たまにこうやって突き抜けて短歌の世界に入っていけるようなものがあるので、書くって面白いですよね。
歩いていく、どこかに向かっていく。そういう行為だと思います。
―短歌の制作は、基本的にPCで行っているとのことでしたが、なぜでしょうか。
短歌を始めて1か月くらいはノートに書いたりしていたのですが、すぐにPCで書くようになりました。短歌の制作は、PCじゃないと間に合わない、というのが理由です。上の句が先にできて下の句を検討しているときに、上の句を何度も書くのは煩わしいし、頭の中で起きていることをなるべく早く目で見て確かめたい。制作時の頭の中のスピードに応えてくれるのはPCかなと。
一首の31文字を決めるのに、メモは平均10,000字くらいになるでしょうか。40,000字超えてもできない、という時もあります。
―伊藤さんの中で、PCとノートに書く内容はそれぞれ異なりますか?
短歌だけでなく、メールもそうですが、PCで書くものは、いつか人に共有する前提で書いているようなところがあると思います。
逆に日記に書くのは、誰にも一生共有する気のない内容ですね。今日どういう流れで、どんなことを言われたとか、その時になんて答えたとか、展示や作品への率直な感想や、腹が立ったこと、喜ぶべきでないのにうれしくて仕方なかったこととか。
短歌のメモは歌を目指しているし、メールは人に送るのがゴールだけど、日記はとにかく個人的なことです。
―そういった個人的な内容を書くものとして、ロルバーンを使っているのはなぜでしょうか。
いろいろなノートを使ったのですが、真っ白の紙は怖いし、罫線は書き方を指定されているようで嫌で。ロルバーンのクリームっぽい紙色と薄い点線の方眼がちょうどいいんです。縛られていないのに無意識にきれいに書けて自然と書くことに集中できます。先ほどの話にもあったように、書きながら考えているところがあるので、ストレスがないことがすごく重要なんです。
あと実はゴムバンドの秘匿性も好きなんだと思います。人に見せたくないことを書いているので、綴じていることに安心するんですよね。たとえば部屋の机に置いていた日記が落ちて開いちゃう…みたいなことも避けられるし。
もちろん誰かが開こうとしたら簡単に開けちゃうんだけど、それでも一本このハードルがあることで、自由が担保されている気がします。
―伊藤さんにとって、紙に書くということは「自分以外には絶対に共有しない」という前提の行為なんですね。
頭の中では何を考えてもいい、という思想の自由があって。それを外に出せる限界がここなのではないかと思っています。別にPCの中に書いてもいいし、他にも方法はあるけれど、最も身近でシンプルなツールなんじゃないかなと。クラウド上に保存していたら、極論、サイバー攻撃にあったら終わりじゃないですか。クラウドに保存しなくても、なんとなく「データ」というものをどこかで信用していない気がします。完全に感覚の話ですが。その点、紙は残したくなかったらこれだけを燃やせばいいので、シンプルで強いなと思うんです。
母が幼い頃に親族に日記を読まれたことがあるらしく、「本当にショックだったから、あなたたちのものは死んでも読みません」と言っていて。自分にとって何を書いても良い場所という感覚は、そういったところから来ているのかもしれません。「頭の中を外に持ち出せる」という点において、紙のノートは、人間が生み出したことの中でもかなり大事な部類のことじゃないかと思います。
歌人/伊藤 紺
1993年東京生まれ。2016年作歌を始める。2019年に『肌に流れる透明な気持ち』、2020年『満ちる腕』を私家版で刊行する。2022年両作の新装版を短歌研究社より同時刊行。最新刊は2023年12月第3歌集『気がする朝』(ナナロク社)。全歌集の装丁を手がけるデザイナー・脇田あすかとの展示作品「Relay」ほか、NEWoMan新宿、ルミネ荻窪といった商業施設での館内特別展示など活躍の場を広げる。